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シン・ゴジラのリアリティ

つらつら文章書いてたら長くなっちゃったので久しぶりに映画の感想を。
 シン・ゴジラ観てきました。ネタバレを含むので見たくない人はUターン。

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 ということでまず一言で言うと、私のシン・ゴジラ感想は「異色のオモシロ映画」でした。
 シン・ゴジラは公開直後から賛否両論で紛糾してて、日が経つにつれ地獄の様相を呈しててうんざりしてたので「ちゃんと観たらおれも堂々と自分の意見で対向できるぞ!」という腹積もりで見に行ったんですけれど、結果としては「賛も否も分かってしまう変な映画」という位置づけになりました。
 シン・ゴジラの評価でよく槍玉に挙げられるのが「人間ドラマが描けてない(描けてる)」「リアリティがある(ない)」「政治的だ(政治的じゃない)」と言った内容ですね。事前に散々そんな話を見た上で見に行ったのでこの3点にフォーカスしましょう。

・リアリティがある/ない

 端的に言うとぼくの感想としては「リアルかもしれないけどリアリティはない」です。
 何でかというとシン・ゴジラはかなり意図的に「記録映画的」に作られてるからです。
 具体的に例示するとまず冒頭、海保の職員が漂流船に乗り込んた記録映像から始まります。その直後ゴジラが出現するわけですが、以降ゴジラ関連のシーンではある場面までずーっと「定点カメラで撮影したような視点」「空撮の記録映像のような視点」「マスコミが車で逃げながら撮影したような視点」「事故現場のニコニコ生放送」など、『作中の第三者』の視点で撮影され続けます。明示されないですし、必ずしもそういうカットばかりではないですけど、そういう印象になるように注意深く撮ってると感じました。
 一方でゴジラ対策に奔走する内閣府ですが、こちらは通常のドラマから一切の『間』を取っ払ったような細かいカット割と大量のセリフでとにかく迅速に官僚たちが判断を下します。感情を表現するようなセリフはほぼなく(キャラクター付けのための皮肉や冗談、嗜める様子などは結構あるけれど)、ひたすら「日本を守るためにどうするか」という検討を重ねていきます。
 また、各映像にはやりすぎなくらい「今映している場所の地名」「今何をしているシーンか」という字幕が溢れています。
 総じて「客観的」なんですよね、前半は。これは後述の「人間ドラマが描けている/描けてない」にも関わってくるんですが、おそらく前半は意図的に『間』を作らないようにして作ったんじゃないかと思います。

 ここからはちょっと作劇手法の話なんですが、そもそも『リアリティ』ってなんぞや、というと、本来は「現実感」となるのでしょうが、作品制作の分野では「没入感」の意味で使われることが多いです。
 まず前提として、「起こった出来事」で観客を没入させるのは本来非常に難しいです。似たような経験をしてないと、「今起こっている出来事」がどんなことなのか、というのを想像するだけで体力を使い果たしてしまうので、通常は「登場人物の感情」を描くことで観客に没入させます。この没入させる際の小道具として『リアリティ』が用いられます。要は観客が今どんな場面なのかというのを簡単に想像できるように「それっぽさ」をお膳立てしてやるわけです。
 分かりやすい例だと、ガンダムやスター・ウォーズは宇宙空間ですけど音が鳴りますよね? 現実の宇宙は音を伝達する物質がないので音がしませんけど、通常の観客は宇宙に行ったことがない人が大半ですから、そのまんま現実通りに音を消してしまうと場面の把握に脳のリソースを割いてしまって人物の動きに着目してもらえません。なんだったらそこで物語に集中することをやめてしまう人の方が多いかもしれないくらいなので、登場人物たちのドラマに集中してもらうために音をつけているわけです。(最近はできる限り宇宙をリアルに描写しつつ人間ドラマも描ききった傑作「インターステラー」「オデッセイ」等々もありますが、慎重に場面を選択しています。ちなみに「ゼログラビティ」は現実的には結構ウソついてるけど没入感がすごい=リアリティがあるというタイプ)
 こういったことを指して、「リアルであることとリアリティがあることは違う」などとよく言われます。
 また、『間』も没入のための重要な要素で、よく初期の欧米映画には「間がない」と批判され、「日本映画や香港映画から間を輸入した」と言われました。『間』を作ることで「次にどう動く?」というストレスをあらかじめ観客にかけてからアクションを起こすことで、感情を煽って没入させるわけです。

 さて、シン・ゴジラの前半はどうだったかというと、先述の通り非常に『間』が少ないです。画面内でアクションが起きてから次の発言や出来事が発生するまで数秒の猶予も与えないくらい畳み掛けます。
 これを作劇手法として見ると「意図的に没入感を削いでいる」としか思えないんですよね。「何が起こる?」と思う間もなく次のアクションが発生するので。
 ツイッター上での情報を鵜呑みにするなら、内閣や官僚の会議シーンは相当綿密に取材を重ねて構築したそうで、かなりリアルに描けているそうです。だとすると、ゴジラパートの「第三者的が撮影したようなシーン」も併せて「本当に起こった出来事という体」で画面を構成していると考えるのが妥当ではないか。つまり「記録映画的」、フェイクドキュメンタリーとして構築しているんじゃないか、という感想を抱きました。
 これが私の「リアルかもしれないけどリアリティはない」という評価の原因です。あ、一応貶めているわけではないですよ。むしろフェイクドキュメンタリー的なゴジラはずっとやってほしいと思っていたのでこの試みはとても面白いと思いました。
 シン・ゴジラは「震災以後」の作品として評されることがあります。実際被害を被った被災当事者の方は沢山居るわけですが(私もあの時仙台に居ました)、大多数の日本人にとってあの災害のリアルとは、災害そのものではなく、繰り返し報道された「定点カメラで撮られた津波の映像」や「マスコミや自衛隊の空撮記録映像」ではないかと思うんですよね。
 ゴジラのシーンはそういう面で「リアルであること」を狙っていたのではないかと思います。



・人間ドラマが描けている/描けてない
 前述したとおり、前半は意図的に没入の余地を奪い、フェイクドキュメンタリー的に進んできたわけですが、中盤のあるイベントを境に様子が一変します。
 ゴジラの放射熱線です。
 自衛隊の総攻撃がまったく通じず、ゴジラの放射熱線によって東京は火の海になり、内閣のメンバーは避難ヘリが打ち落とされ全員死亡、官僚たちも少なくない被害に合い、メンバーが半分以上減ってしまいます。
 ここまでゴジラに対し、一枚壁を置いて事を進めてきた巨対災の官僚たちは、このイベントを境に「当事者」になります。
 内閣側の描写は意図的に没入感を削がれていたとはいえ、その人となりは僅かな時間でもうかがい知ることができます。それが全員、直接的な被害に遭い、死人が大勢出た。
 実際にはこの放射熱線イベントの前から少しずつ下準備として間を取る演出や心情吐露が増えていたのですが、このイベント以後明らかに登場人物の感情が露にされるシーンが増え、そこまで積み重ねてきた「記録映画的なリアル」を放棄して「ドラマ」が描かれるようになります。
 以後はラストまで一直線、打倒ゴジラのために団結し、アメリカと核兵器を使う、使わせないと言った政争を挟みながら知力を振り絞ってゴジラを停止させました。

 ――――こう聞くとそつの無い構成に見えますが、実はこの構成こそがシン・ゴジラの賛否を分けた最も重要なポイントではないか、と私は睨んでいます。
 というのも、散々述べているように、前半は記録映画的に撮って没入感を削いでいるので、これまで主役として活躍してきた内閣が全員死んでも「あっ死んだ(笑)」で終わってしまうんですよね…。分かりやすい死亡フラグまで立てて死んでいきます。
 しかも最初から「記録映画的」に観ている方としては中々素直に頭が切り替わらないんですよね、「そういう映画を観ているんだ」というモードに入ってるから、いざ登場人物のドラマが描写されるようになっても一歩引いて「フーン」と見ちゃう。これが「人間ドラマが描けてない」と言われる原因だと思います。
 「描けている」派の方はこの切り替えがスパーンと行えたか、あるいは最初から内閣、官僚側の話に感情移入できていたか、もしくは「そういうシーンがあるなら描けているって言っていいだろ」という考えなのか…。最後は論外として扱いたいんですが、このいずれかではないかと思います。
 これも試みとしては面白いんですけど、個人的には上手く行ってないなあ…と思ってしまいました。ここで上手く乗れた人は絶賛に繋がったのでしょう。
 ここまで徹底してきたリアルがゴジラという圧倒的なフィクションに破壊される、キャッチコピーの「現実(ニッポン)対虚構(ゴジラ)」はまさにこのシーンにかかってくるものですし、理屈の上では面白いはずなんですけどね。
 そういえば、シーン構成を考えると、現実と虚構の対決は「現実」が敗北した、ということになるんでしょうか。



・政治的である/政治的じゃない
 ゴジラは初代からしてとてもプロパガンダ要素が強い映画でした。
 「ゴジラ=核の脅威」という図式はゴジラについてちょっと詳しい人なら誰でも知っていると思います。
 そのゴジラに東京は蹂躙されるも、芹沢博士が開発したオキシジェンデストロイヤーによって打倒され、彼自身もゴジラと共に泡と消える…。
 これ、言ったら悪いですけど「自爆特攻」ですよね芹沢博士? しかもオキシジェンデストロイヤーって水中の生物を全部溶かしてしまう(なので使用を躊躇していた)ってことはあの辺りの海域資源が全滅してるわけで。
 また「ゴジラ=核の脅威」の図式なんですけど、この当時日本が問題視していた核開発といえばアメリカなわけです。いやソ連もやってたんですけど、「ビキニ環礁(アメリカ)の核実験をうけて」ってはっきり言っちゃってるので。
 これ以上は察して。
 その後、「ゴジラ対へドラ」などでも公害のような環境問題に切り込み(初代ゴジラも環境問題を主題にした映画だ、と言うことになっている。一応。)、平成に入っても「ゴジラ・モスラ・キングギドラ」ではかつての大戦時の怨霊がゴジラになって太古から日本を守護してきた聖獣と戦うなど、よくよく考えたら政治的には大分ヤバイテーマで作ってるものがわりとあります。
 またいわゆる「エメリッヒゴジラ」と呼ばれる初代ハリウッド版ゴジラは、日本では一貫してアメリカの核実験で誕生したという設定だったゴジラがフランスの核実験で誕生してたことになってたりします。
 で、今回のシン・ゴジラは「徹底してリアルに描写された」内閣が登場するわけですが……私は不思議と、政治的な意味合いがあるだろうというシーンは少なく感じました。
 というのも、間断なく話が進むので「スパスパ決断できる有能な人たちの集まり」と思ってしまいそうになるんですけど、冷静になって描写を見ると政府の対応は後手後手、せっかくの自衛隊総力戦も効果なしで逆にとてつもない被害を出したり、またそうなる以前にも自衛隊が国内で発砲することの是非についてものすごく慎重に進めていたりと、前半は「多分一般人から見たらこの政府わりと無能に見えてるんじゃないかな…」と思ってしまうようなシーンで構成されてます。
 後半、登場人物たちが当事者として覚醒し、話がフィクションに振り切ってからはガンガン有能さを発揮していきますが、何度も言うように「リアルさ」を放棄した上でこの描写なんですよね。
 閣僚、官僚たちの行動はほとんどが「政治家としてやるべきこと」で構成されているので、おそらく現政権を持ち上げる意図は無いというか、たとえどの政権であってもこういう描写にしたのではないかと思われます。
 ただ作中ほとんど政治としてゴジラにどう対応するかという話をしているので、切り取ろうと思えばどう切り取っても政治的なメッセージになるようになってしまっているのがこの話題で揉める原因ではないかなーと。
 あえて政治的だなと思ったシーンを挙げると、個人的には「この国のいいところはすぐリーダーが見つかるところだ」というセリフが色んな意味で風刺的だなと感じました。あと「また地方は置いてけぼりか…」もかな。これを踏まえるとラストの「せっかく破壊されたんだ、まともに使えるように作り直してやろう」というセリフも現実に対するチクッとしたセリフ。劇中で直接的な被害を被ったのは神奈川と東京と、おそらく千葉もかな? 地方云々は歴代のゴジラも大体東京を侵攻しているので自虐的ギャグなんじゃないかなと思いますけどね。私は田舎者なので(笑)



 ということで感想とその理由を述べてきました。
 ここまで「リアルかもしれないけどリアリティはない」と述べてきましたが、実は前半のリアル重視の場面でも
「あれだけがっつり兵器を映しておきながら自衛隊の砲撃音が昔の特撮のサンプリング(おそらくこれも積み上げてきたリアルさを崩壊させる下準備の一つかな? 単に監督が好きなだけだろうけど〔スタッフロールの音響のところに庵野監督の名前があります〕)」
 とか
「生物学者として一番まともなこと言ってるのが一言だけ言って退場した御用学者たち(以降は初っ端から生物学としては相当トンチキなことばっかり言ってます。仮にも生物学者として出てきたキャラが個体の変態に対して進化とか言ってんじゃねーよ! 蒲田くん形態で既に自重を支えられているという根拠をちょっとでいいからセリフで言ってほしかったよ! 角度的に見て~とか具体的なことは濁していいからさあ! 虚構の核の部分なので仕方ないけど!)」
 とか、要所要所でリアルさを放棄した場面が多々あります。
 なんというか、まあ、これも他の人がたくさん言ってると思うんですけど、結論としては「庵野監督がゴジラを題材に好き放題やった映画」になんじゃないかと思います。総攻撃シーンとか戦車の映し方がフェティッシュすぎる…。
 ケチをつけた文章の方が多いですけど、ちゃんと面白かったと思える映画ではありました。ただ「傑作」や「名作」の類かどうかと言われると…やっぱり「異色のオモシロ映画」かな…という。

 劇場公開真っ最中な映画に対してこういうこと言ってしまうのはどうかと思うんですけど、この映画の構成的には「DVDを買って家のテレビやPCでニヤニヤしながら観る」のが最も面白く、劇中の「リアルさ」を楽しめる鑑賞方法ではないかと思います。

 以上、シン・ゴジラ感想でした。



・追記
 こんな感想を見かけて、なるほどなと思ったのでちょっと追記。

シンゴジラみてきました。(最上和子さんのブログ)

 そういやシンゴジって「空虚だ」っていう評価を割と聞くんですよね。「中身がない」「だから鏡のように見た人の姿を映す」というのを、賛側からも否側からも聞きます。
 私は上のほうで散々「リアルかもしれないけどリアリティはない」と書いてきたんですけど、この「空虚さ」もこの「リアルであること」に由来してるのかなと思います。
 というのも、「リアリティとは没入感を誘う小道具である」と言いました。シン・ゴジラにはそれがない、これは翻って「没入感を誘うべき対象が居ない」ということでもあるんですよね。
 「リアルかもしれないけどリアリティはない」というのは、映画の中身が「没入するべき対象が居ない現実の引き写し」ということでもある。この場合「現実の引き写し」というのは「綿密に取材した会議の様子」とか「震災当時の映像」とかでもいいんですけど、作品の中核を成している『現実』は「庵野監督が大好きな現実に存在している作品のパロディ」が一番大きいんじゃないか。つまりやっぱり庵野監督が好き放題した巨大なパッチワークじゃねーか!
 パロディの話が出たんでついでに言及すると「放射熱線で炎上する東京」ってガメラ3ラストの「炎上した京都」っぽいなって。樋口監督とタッグ組んでるからかも。あるいはこれも別の元ネタあるのかな?

 話を戻して、先述の最上和子さんのブログの中の気になった一文に
「テンポは速いが、時間はだらだらと締まりがない。」
 というものがあります。これって「会話のテンポが気持ち良い」という評価と表裏一体なんじゃない? と思いました。
 シンゴジには『間』がほとんど無いと言ったんですけど、間というのは作劇手法として観客にストレスをかけて気を引き締める意味合いも持ってます。おんなじような刺激がずっと続くと人ってあっという間に気が緩んでしまうんで(高速道路の運転で眠くならないように気をつけろよ、と指導された方も多いんじゃないかと思います、あの感じです)、適宜間を作って刺激に変化をつけ、ストレスをかけて牽引していくのが技法的には正道とされているんですよね。これを「物語に緩急をつける」とも言います。序破急とか起承転結とか、作劇なんて考えたことがないって人でも聞いたことあるんじゃないでしょうか。
 この「会話テンポの気持ちよさ」って「内容は分からなくても音としてきもちいい感じ」って言ってる人が実際に多く居るんですよ。「何言ってるかわかんねーけどきもちえ~な~」で観れてしまっている。実際に私も気持ちよくなりかけました。
 展開としては「だらだらと締まりがない」音の刺激としては「テンポがよく気持ち良い」。これって…実はまったく同じ話なのでは?

 あ、あと蒲田くん品川くんがかわいいことは同意しておきます。
 かわいいんだけど、そのせいでシュールギャグっぽいんですよね。この時の閣僚メンバーも間投詞の使い方などでギャグ的な間の詰め方してる。これもわざとなのかな? どうだろう。

 以上追記でした。